2024年12月21日土曜日

『週間読書人』で拙著が取り上げられました

12月20日刊行『週間読書人』の「2024年回顧--収獲動向」という特集で、拙著『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』が取り上げられました。評者は福岡女子大学の長岡真吾先生です。

「海外学術誌に掲載された論文を日本語にしてまとめた精緻な労作」と紹介してくださっています。ありがとうございます。

他にもいくつかの研究書と、さまざまな翻訳書が紹介されています。大きくない紙面ですが、そのなかにぎっしりと今年の「収穫」がまとめられています。

2024年12月1日日曜日

岸まどかさんのご著書

岸まどかさんの第一単著、The Suicidal State: Race Suicide, Biopower, and the Sexuality of Population (Oxford University Press)が刊行されました。ご本人からご恵投いただき、読み進めている最中ですが、素晴らしい本なのでここで紹介します。

岸さんは大学院時代からの大切な友人で、留学準備や留学中など、大変な時期を互いに励まし合いながら一緒に乗り越えてきた戦友ともいうべき方です。長らくアメリカにご在住で、主に英語で研究発表をされてきたということもあり、もしかするとご研究活動が日本では広く知られていないかもしれませんが、とんでもなく優秀な方です。

本の概要を出版社のサイトから引用します:

The Suicidal State theorizes a biopolitics of suicide by mapping the entwinement between the Progressive-Era discourse of “race suicide” and period representations of literary suicide. Against the backdrop of the turn-of-the-century debates over immigration restrictions, “race suicide” suggests white Americans' low birth rate as foretelling an immanent extinction of the white race, prefiguring the contemporary white nationalist discourse, “replacement theory.” While race suicide personified the populational subject--the “race”--as a suicidal individual, Progressive-Era literature gave birth to a microgenre of literary suicides, including works by Henry James, Kate Chopin, Jack London, Gertrude Stein, and a series of Madame Butterfly texts.

The Suicidal State argues that suicides in these texts literalize the fear of race suicide as they thwart the biopolitical demands for self-preservation, survival, and reproduction, articulating queer deathways that betray the nation's reproductive imperative. Both in its figuration of race suicide and in literary suicides, self-inflected death is imagined as a uniquely agential act in its destruction of agency, offering a fertile space for the reconceptualization of biopower's subject formation as it traverses individual and social bodies. That is, the book argues that suicide poses a limit case for the biopolitical management over life. Suicide, as it was imagined at the turn of the century, refuses, nullifies, and parries its obligatory relation to both biopower's discipline of the individual and its management of the population, thereby forging new forms of subjectivity and ways of being in the world that sidestep the twin imperatives for preservation and procreation. In tracking these queer potentialities of suicide, The Suicidal State offers a new history of sex and race, of the relation between individual and collective, of the formation of a biopolitical state that Foucault calls a “racist State, a murderous State, and a suicidal State.”

この紹介にあるように、世紀転換期の小説群に見られる「自殺」のモチーフを、当時の人種をめぐる言説に位置付けながら論じる研究書になっています。The AwakeningのEdnaをはじめとして、アメリカ文学史における有名な自殺のモチーフが、「そのような読み方があったか!」という鮮やかな読解を通じて論じられていきます。

岸さんは理論の専門家でもあるので、私には難しいかな・・・と読む前は恐れをなしていたのですが、歴史的コンテクストも詳しく説明されるし、なにより作品の精読が基盤となっているので、私のような門外漢もついていける議論になっています。序章を読むだけで、議論の鮮やかさと密度に「すごい・・・」としか言葉が出てきません。

内容もさることながら、Oxford University Pressという超メジャーな出版社から単著を出した、という事実だけでもとんでもない快挙で、私には想像もつかないレベルのことを岸さんはやってのけています。私も海外から出版したことがあるのでわかるのですが、これは本当にとてつもないことです(語彙が追いつきません)。

岸さんは優れた翻訳家としてもご活躍中で、数年前にはご訳書、イヴ・コソフスキー・セジウィック 『タッチング・フィーリング: 情動・教育学・パフォーマティヴィティ』(小鳥遊書房、2022年)を刊行されています:https://amzn.asia/d/dkB3Sf6

今回のご著書が、日本の研究者にも広く読まれることを願っています。 

2024年9月8日日曜日

研究者研究のススメ

一人の研究者が書いたものを、時系列順に読み進めてゆく--そんな経験はあるでしょうか。

先日、紀伊國屋書店で阿部幸大さんとの対談が開催されましたが(お越しいただいた方々、ありがとうございました)、事前準備として、阿部さんが書いた論文を8本ほど時系列順に読むことで、「阿部幸大研究」をして臨みました。

そんなことをしたのは初めてだったのですが、これがとても勉強になったのでぜひお勧めしたいと思います。

阿部さんの論文はそのときそのときで目立ったものは読んでいたし、どういう研究をしているかは知っていたつもりだったのですが、時系列順に読むことで、一人の研究者が何をしようとしているか、そしてどのような成長の軌跡をたどっているかが深く理解できるようになりました。

例えば阿部さんであれば、精読を踏まえた伝統的な作品論をキャリア初期に書いて日本の媒体に発表しており、そして徐々にアメリカの媒体に発表し始め、最終的にはアメリカ文学分野のトップジャーナルであるAmerican Literatureに論文を発表する、という一つの成長ナラティヴがあります。

私はAmerican Literatureに掲載された論文を読んだとき、議論の組み立ての洗練度合いや、議論の射程の広さに感銘を受けたのですが、正直言って、あまり文学を精読で論じていない、というところが引っ掛かり(この雑誌に掲載されている論文はどれもそうなので、阿部さんのものに限らない不満です)、十分に評価しきれていませんでした。

ところが今回、時系列順に読んでいくと、「文学作品を精読で論じる」というところを通過し、それはもちろんやろうとすればできる、ということは踏まえたうえで、あえてAmerican Literatureに掲載されるための論の組み立てをしていることがよくわかりました。「やっていない」から「できない」のではなく、媒体に応じてやることを変えているわけです。こう書くと、当たり前すぎてなんじゃそりゃ、という感じかもしれませんが、その当たり前を腹の底で理解できたわけです。

トップジャーナルに掲載するために、自分がすでに持っている引き出しをあえて封印して、それまで持っていなかった力を改めて身につけてチャレンジした、というところに深く感銘を受けました。対談でも話しましたが、そういう自己改造ができるところが阿部さんの強みだと思います。

そうした志の高さは見習うべきものがあり、それに比べて私は同じところをぐるぐる回っているなという反省があります。そういうわけで、サバティカル中からここ2年ほどは自己改造中です(残念ながら、思うような結果は出ていません)。

個人的には、先日『誘惑する他者ーーメルヴィル文学の倫理』という、作品論をまとめた本を上梓したこともあり、作品論ではない、より射程の広い論文を書けるようようになりたいと努力しているところです。

もちろん、論文は筆者がどうこうというのは関係なく、論文単体で評価されるべきですが、自分自身のキャリアを考える意味でも、他の研究者のキャリアを追ってみることで得られる知見があると思います。「研究者研究」、私のように道に迷っている方にお勧めです。

2024年9月6日金曜日

日本メルヴィル学会で発表します

 9月15日(日)に日本メルヴィル学会年次大会が龍谷大学大宮キャンパスで開催されます:https://www.melville-japan.org/

私は以下のシンポに登壇します。

連続特別企画第2回「思想家を通してメルヴィルを語る」

司 会 竹内 勝徳 氏(鹿児島大学)

報告者 

小椋 道晃 氏(明治学院大学)

古井 義昭 氏(立教大学)

この企画は、ジル・ドゥルーズ「バートルビー、または決まり文句」(『批評と臨床』所収)と、Michael Jonik, “Murmurs, Stutters, Foreign Intonations: Melville’s Unreadables”という二つのテクストをもとに、発表者各自で応答を試みるというものです。

学会プログラムでは公開されていませんが、私の現時点での発表タイトルは「Breaking Englishーーメルヴィルのテクストスケープ」というもので、主にドゥルーズの「マイナー文学」「脱領土化」といった概念を参照しながら、メルヴィル作品における英語のマイナー性について話をしようと思っています。メルヴィル文学をドゥルーズ・ガタリ的な意味とは違った意味での「マイナー文学」として読むことができるのではないか、というのが一つの主張になります。

発表タイトルにもある「テクストスケープ」というのは私の造語で、思いついたときは絶対に人文系ですでに論じられていると思ったのですが、まだ使われていないようです。これの意味するところは、テクストを一つの風景として捉え、ある言語によって占有される「領土」としてその風景を理解することにあります。英語で書かれた小説なら英語のテクストスケープを読者は目にするわけですが、メルヴィルの場合、英語の領土のなかにさまざまな外部への回路が用意されており、ハイブリッドなテクストスケープが提示されているように思います。

口頭発表のときはいつも論文化を前提にしているので、まずは論文を書き、それを圧縮したものが口頭発表の原稿となるのですが、今回は初めて論文化を前提としないで、口頭発表用の原稿を用意しています。

最近は他の論文で忙しく余裕がないというのもあるのですが、今回は議論を論文として完成させないで、少し自由にアイディアを試すということをあえてやってみようと思いました。頑張ります。



2024年8月27日火曜日

トークイベント

阿部幸大さんとのトークイベントが8/29(木)に迫りました。

同業者の方、院生の方、学部生の方、私の本の読者の方、等々、どんな方でも大歓迎ですので、ご興味があればぜひいらしてください!

阿部幸大×古井義昭 対談!

アカデミック・スキルと日本の人文学の未来

長年アカデミック・スキルについて(密かに)語り合ってきた2人が、その「手の内」を明かす!

大学院在学中から国内外で成果を出しつづけてきた多産な2人は、どのように読み、書いてきたのか。

論文の執筆・投稿はもちろん、日々の英語の勉強から、アイディアの練りかた、論文と単著、そして日本とアメリカの違いまで、日本の人文学の「これから」を担う世代に、なんでも教えちゃう対談トークイベントです。

より細かい詳細はこちらからご覧ください:https://store.kinokuniya.co.jp/event/1722422155/。オンラインでも視聴できます。

2024年8月7日水曜日

阿部幸大さんとのトークイベント@紀伊國屋書店 新宿本店

阿部幸大さんと、紀伊国屋書店新宿本店にてトークイベントを開催することになりました。8月29日(木)、18時からです。以下が概要になります。

阿部幸大×古井義昭 対談!

アカデミック・スキルと日本の人文学の未来

長年アカデミック・スキルについて(密かに)語り合ってきた2人が、その「手の内」を明かす!

大学院在学中から国内外で成果を出しつづけてきた多産な2人は、どのように読み、書いてきたのか。

論文の執筆・投稿はもちろん、日々の英語の勉強から、アイディアの練りかた、論文と単著、そして日本とアメリカの違いまで、日本の人文学の「これから」を担う世代に、なんでも教えちゃう対談トークイベントです。

より細かい詳細はこちらからご覧ください:https://store.kinokuniya.co.jp/event/1722422155/。オンラインでも視聴できます。

先日発売された阿部さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』はすごい売れ行きのようで、今回のイベントに参加されるのは、阿部さん目当ての方が大勢ではないかと思います。長らく阿部さんの研究と成長の軌跡をウォッチしてきた身として、この本の良さを引き出せればと思っています。

ただ、もし私の話を聞きたいと思ってくれる方が少しでもいるなら、とても嬉しく思います。まあ、私のサインなど欲しい人がいるとは思いませんが、身近な人たちにサインするときに使っている猫のスタンプを一応持っていきます(笑)。

もちろん「対談イベント」ですので、お互いの研究観や人文学の意味、研究にまつわるもろもろについて意見交換するつもりで、私も非常に楽しみにしています。

ご興味がある方はぜひご参加ください! 


2024年7月20日土曜日

『図書新聞』上半期アンケートで取り上げられました

本日(7/20)発売の『図書新聞』最新号の「上半期読書アンケート」で、巽孝之先生に拙著『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』を取り上げていただきました。

選者一人につき3冊を選ぶ形式なのですが、そのうちの1冊として挙げていただいています。当たり前ですがすべてをアップすることはできないので、一部分のみを:


特に、「古井の著書が類書全てと決定的に異なるのは、収められた論文の大変が北米第一級の学術誌だ」という評は、専門家でないとわからない(巽先生のような専門家でないとインパクトがわからない)点なので、そこを取り上げてくださったのがありがたかったです。詳しくは実際の紙面をご覧ください。77人もの選者がそれぞれの3冊を選んでおり、大変読み応えのあるものになっています。

巽先生は宮崎裕助さんの本も一緒にあげてくださってますが、こちらの本も「読むことのエチカ」(私の本だと「読むことの倫理」)について書いており、同時期に同じテーマに取り組んでいる本が出たのは奇遇です。

最初の単著をアメリカから出したときは、こうやって学会誌以外の場所で取り上げられるということはほとんど考えていなかったのですが、今回の本を出してから、学会以外の場で人にどう読まれるのかを気にかけるようになりました。

当たり前のことですが、学術書を含め、本は毎月のように大量に出版されており、そのなかで誰かの注意を引くということが本当に大変だと気づかされました。そういう意味でも、こうやって取り上げていただけるのはありがたいことです。引き続きどこかで取り上げてもらえるのを願っています。

2024年7月19日金曜日

阿部幸大さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

阿部幸大さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』をご恵投いただきました。7月24日に発売予定のご本です:https://amzn.asia/d/0gxDM3a8

このブログは私の仕事の告知用に運用しているので、他の方のお仕事を紹介したことはないのですが、この本に限ってはぜひ紹介したいと思いました。ある意味、論文指導をしている私自身に関係する本でもあるからです。

この本は、論文執筆という行為を脱神秘化し、民主化する画期的な本です。このブログを読んでいる学生の方がいれば、ぜひ手に取っていただきたいと思います。

阿部さんと私は、長らくメールなどを通じて論文執筆の教育について意見交換をしてきました。繰り返し話し合ってきたのは、「論文って大半はテクニックの問題だよね」という点でした。これは、論文執筆をテクニックという「瑣末」に見える次元に矮小化しているのではありません。そういう「瑣末」な問題でつまづいてしまう人が多いために、いいアイディアや議論があったとしても、論文という形で世に出すことが叶わない(査読に通らない)人が多いことを嘆いているのです。

私や阿部さんは超放任主義のところで育ったので、論文の書き方を教わるという経験はほぼなく、自力で論文の書き方を見つける必要がありました。少なくとも私は人の論文の見ようみまねで、ゼロから自分なりの論文の型というものを構築していかねばなりませんでした。日本の大学院で論文指導というものを受けた記憶はほとんどありません。「才能」とか「センス」とかではなく(そういう人もたくさんいるでしょう)、私の場合は生き延びるために「ド根性」でどうにかしてしまったのです。

阿部さんの本は、論文執筆を、そのように「自力でなんとかできてしまった人たち」の専有物ではなく、誰しもが獲得可能な技術として提示しています。そこがこの本の画期的なところです。私が冒頭で「民主化」という言葉を使ったのはそういう理由です。

また、自力で苦労した経験からすると、そもそもこういうテクニックの問題は早めに教えてもらえればよかった、という思いがあります。阿部さんの本は、そういう苦労を次世代に繰り返させまいとする善意の本でもあります。

自力で論文を書けるようになった人の中には、「いやいや、そういう試行錯誤が研究の地力を作るのであって、あえて教えるものではない」と反論する人がいるかもしれません。私も確かにそう思います。しかしそれは理想論であって、教えられるテクニックを教えてもらえないために、論文が書けず、キャリアを諦めざるを得ない人がいるのも事実です。大学院生が減少しつつあるなか、そういうエリート主義は不要で、民主化が必要なのです。

この本で具体的におすすめなのは、第3章「パラグラフをつくる」、第4章「パラグラフを解析する」、そして第7章「イントロダクションにすべてを書く」、です。学部生にも十分理解可能で実践可能なことばかりが書いてあります。

特に私はイントロダクションの重要性を日頃から口を酸っぱくして学生たちに伝えているので、阿部さんが本という形でそれを明文化してくれたのは大変ありがたいです。特に査読や審査の場において、イントロでほぼ全てが決まるということは、私のこれまでの投稿者側としての長い経験上、確信を持って言えます。イントロの重要性は、特に投稿数が多い海外ジャーナルに顕著で、日本の論文作法ではそこまで浸透していない価値観のように思えます。

実は一番難易度が高いのは、第1章「アーギュメントをつくる」だと考えています。これについては、私自身もまだうまくできていないことが多く、非常に勉強になりました。また、実力が伴っていない学生がこの指南にしたがってアーギュメントをつくってしまうと、見栄えだけがいい主張が先行し、例証が伴わないアンバランスな論文になってしまう場合もあるかもしれません。なので、この第1章は、これだけを取り出して理解するのではなく、この本の他の章も理解したうえでアプローチする必要があると思います。第1章、とてもわかりやすい風でありながら、それくらい高度な話をしています。

研究歴がそれなりに長い私にとっても勉強になるくらい、この本は不思議なほど門戸が広い稀有な本になっています。私は長らく論文指導には戸田山和久『論文の教室』を使ってきましたが、今後はこの本をメインに使うことになるでしょう。

私自身、日本における論文指導について長く考えてきたこともあり、思わず長文になってしまいました。時代を刷新するこの本、強くおすすめです。

2024年7月16日火曜日

『ユリイカ』ポール・オースター特集号に寄稿しました

 『ユリイカ』のポール・オースター特集号が7月末に出版されます:http://seidosha.co.jp/book/index.php?id=3954&status=published

私は「オースターとメルヴィル」というお題で依頼を受け、「寂しさの発明:オースターとメルヴィル」という論考を寄稿しました。

オースターが19世紀アメリカ文学に強い影響を受けているのは有名な話ですが、私は特に孤独と寂しさの描き方において、オースター作品にメルヴィルの影を読み取れるのではないか、という論を書いています。

取り上げた作品はもちろん、『孤独の発明』です。この作品には一度もメルヴィルの名前は出てこないのですが、メルヴィルを研究している目からすれば、どうしてもメルヴィルの影響をそこかしこに感じざるをえませんでした。

私は今でこそ19世紀アメリカ文学を専門にしていますが、アメリカ文学に興味を持ったきっかけは柴田元幸先生の『アメリカ文学のレッスン』と、柴田先生訳の『孤独の発明』でした。学部生のとき、『孤独の発明』冒頭の訳文の美しさに心打たれたときの衝撃をいまだに覚えています。

その後、卒論ではレイモンド・カーヴァーを扱い、大学院からメルヴィルをやるようになり、どんどんと現代アメリカ文学から離れていきました。その意味で、今回オースター作品を読み直して原稿を書く作業は、約20年越しに自分の原点に戻るような感覚でした。

また、いわゆる「論文」ではない文章を書くのは、書評を除いてほとんど初めてと言っていいと思います。今回のは「論考」と形容すればいいのかもしれませんが、呼び方はともあれ、新しいタイプの文章を書くのは新鮮な体験でした。

柴田先生はもちろん、豪華な執筆陣が寄稿していますのでご興味があれば手に取っていただければと思います。

2024年6月18日火曜日

論文が受理されました

メルヴィルの『戦争詩集』に関する論文が、ケンブリッジ大学出版局発行のJournal of American Studiesにアクセプトされました。このジャーナルに載せてもらうのは「バートルビー」論を載せて以来、二度目になります。

なかなか掲載が難しいジャーナルということもあって、喜びもひとしおです。違うジャーナルに一度はリジェクトされたこともあり、長い闘いでした。海外ジャーナル掲載に興味がある人のために、今回の掲載受理までのタイムラインを記します。

2022年3月:論文書き始め

2022年11月:とあるジャーナルに投稿

2023年6月:リジェクト通知

2023年8月:JASに投稿

2023年12月:査読結果通知。major revisionを求められる

2024年3月:修正稿を投稿。再査読

2024年6月:アクセプト!

というわけで、投稿から掲載まで一年半以上かかりました。

改稿要求がなかなか対応するのが難しいもので、かなり苦しかったです。もう諦めようと思ったりもしたのですが、ダメもとで歯を食いしばりながら書き直しました。結果的に諦めずよかったです。アクセプトの通知が来て、思わず「よっしゃ!」と叫んでしまいました。

これで海外ジャーナルでの論文掲載は10本目になりますが、毎回苦労は変わらないし、アクセプトされたときの喜びは何にも変え難いものがあります。やはり、目に見えない遠くの誰かを自分の文章(しかも英語という外国語)で説得できたということは、研究者として大きな自信になります。内輪向けの文章や論理では査読には通りません。

実際の掲載までまた時間がかかると思いますが、久しぶりに査読論文を通せてホッとしています。最近は海外での英語査読論文を出せていなかったので、まだ自分にその力があることが確認できたと言いますか。特に最近はメルヴィル単著も含めて日本語の仕事が多かったので、英語と日本語の両方で発信し続けることの難しさも感じているところです。

最近は依頼仕事に対応するので手いっぱいなのですが、査読論文の執筆も継続的に続けていきます。学会の仕事で人の論文を査読する機会も増えてきましたが、自分自身も常に査読され審査される側にいたいと思っています。

2024年4月26日金曜日

日本英文学会のシンポジアムに登壇します

来週末に東北大学にて日本英文学会全国大会が開催されますが、最終日の5月5日(日)にシンポジアムに登壇します。詳細は以下の通り:

第9部門(B棟2階B202教室)

健康・病・障害:19世紀アメリカ文学の新展開

司会・討論 中央大学教授 髙尾直知

講師 青山学院大学教授 古屋耕平

講師 広島経済大学准教授 本岡亜沙子

講師 明治学院大学専任講師 小椋道晃

講師 立教大学教授 古井義昭

私の発表要旨は以下の通りです:

「痛みを測る──Dickinson作品における言語と他者」

 Emily Dickinsonの詩作品の多くには、「痛み(pain)」がさまざまな形で描かれている。これは彼女が目の病を患ったという伝記的事実や、南北戦争の災禍を間接的に体験したという歴史的背景と無関係ではない。さらには、1846年にボストンで麻酔が発明されたことも、彼女の作品群における痛みの文化的意味を探るうえで重要である。

 痛みに満ちた世界を生きたDickinsonは、痛みを他者に伝える手段としての言語の可能性と限界について詩的思考を巡らせたはずである。言語は、痛みという極めて個人的かつ主観的経験をいかにして他者に伝達しうるのか。あるいは、人は言語を通じて他者の痛みをどこまで理解できるのか。本発表では、Dickinson作品における痛みと言語の関わりに焦点を当て、痛みが提示する他者性に彼女が詩人としてどう向き合い、作品へと昇華させたのかを吟味検討したい。Elaine ScarryからThomas Constantinescoに至る痛みに関する文化・文学研究を参照しつつ、“I measure every Grief I meet” (Fr550)などの詩群を議論の俎上に乗せたい。

ディキンソンは最初の単著Modernizing Solitudeで扱いましたが、彼女の詩を取り上げるのはだいぶ久しぶりです。

最近はこのシンポの準備に加え、海外からの共著依頼が二件ほどあり、そのアブストラクトなどを作成しています。英語圏で論文を発表し始めて10年ちょっと、ようやく海外からも原稿依頼が来るようになってホッとしているところがあります。一つはメルヴィル関係、もう一つは孤独関係の共著です。

自分の中の価値基準として、依頼仕事よりも、自分の意志で書いた査読論文や単著のほうがはるかに価値が高いのですが、今年は単著も出したことですし、依頼仕事に身を任せるのもいいかなと思っています。依頼仕事と自分のプロジェクトのバランスを考えながら、これから仕事をしていきたいと考えています。

2024年4月14日日曜日

阿部幸大さんの書評

公開からずいぶん時間が経ってしまいましたが、筑波大学の阿部幸大さんがブログで「古井義昭『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』の取扱説明書」というタイトルの書評を書いてくださいました:https://abc-kd.hatenablog.com/entry/2024/03/09/164548

阿部さんは大学院の後輩ですが、教室で一緒になったことはなく、連絡を取るようになったのは、私がアメリカの博士課程に留学していたころだったと思います。実際にお会いしたのは、メールでやり取りを始めてからだいぶ先のことです。

私はもともと海外発信志向で、なんとか英語圏で頑張ろうとしていたものの、あまり周りに「同志」といえる人がいない状態でした。そんななか、阿部さんは私の方向性に共感してくれて、頻繁にやり取りをするようになりました。いまでは彼はアメリカ文学のトップジャーナルに論文を掲載するようになり、気づいたら私の先に行ってしまいました:

https://read.dukeupress.edu/american-literature/article/95/4/701/382070/Afro-Asian-Antagonism-and-the-Long-Korean-War

冒頭で紹介した書評は、私の本を「内容」ではなく「論文執筆のテクニック」という観点から評した非常にユニークなものになっています。彼とは文学研究に対する姿勢においては異なる点があるものの、私が各章のイントロでやろうとしていることを正確に言語化してくださっています。

阿部さんとこれまでよく話してきたのは、論文というのはテクニックさえ習得すれば、ある程度以上のものは書けるようになるはず、というものです。阿部さんも私も超放任主義のところで育ったので、無手勝流で論文の書き方を構築していったわけですが、そういうテクニックは教えることが可能なので、それは一部の人の秘教的なものではなく、あまねく共有されるべきだと以前から二人で話し合っていました。私自身、早い段階でそういうテクニックを誰かに教えてもらえていれば、もっと早くから結果を出せたのに、と思います。

阿部さんはその論文執筆のテクニックをまとめたアカデミック・ライティング本を出版予定とのことで、それによって論文執筆という行為が脱神秘化されることを期待します。論文を書くというのは、「頭がいい」、「センスのいい」一部の人たちにのみ可能なものではないはずです。私はすでに草稿を読ませていただきましたが、膝を打つ内容ばかりでした。乞うご期待。

2024年3月15日金曜日

『誘惑する他者』序文(の一部)公開

 出版社のnoteで、『誘惑する他者』の序文が一部公開されました。手に取るかどうか迷っている方はぜひこちらを参照していただければ。

https://note.com/hup/n/nd33fd7adc974

2024年3月1日金曜日

本が出来上がりました

 ようやく本が出来上がり、手元に届きました。表紙の紙質やデザインなど、編集者の方には私の希望を反映してもらいました。非常に気に入っています。




前回の本を出した時は、アメリカの出版社ということで編集者の方とは一度も会わないまま本を出すことになったのですが、今回は何度か編集者の方と対面で打ち合わせをしながら、一緒に本作りをしていきました。それが普通なのでしょうが、初めてだったので新鮮でした。

これで日米の大学出版局から本を出したことになるわけですが、日米の出版文化の違いなど、色々と気づく点がありました。おいおい、このブログでそういった点についても書いていければと思います。

2024年2月15日木曜日

書影と目次公開

近刊のメルヴィル単著に関して、出版社から詳細情報が公開されました:https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-49522-9.html

内容紹介

『白鯨』『ビリー・バッド』「バートルビー」をはじめ、安易な解釈を許さない数々の問題作で知られる19世紀米国の大作家メルヴィル。その主要作品群を精読し、誘惑すると同時に理解を拒絶する他者、配達不能郵便(デッドレター)のモチーフ、孤独や共同体や帝国主義的暴力の問題など、書くこと/読むことの根源に関わるテーマを徹底的に掘り下げる。読解への最高の手引きとなる一冊、ここに誕生!

著者プロフィール

古井 義昭(フルイ ヨシアキ)

1982年生まれ。エモリー大学英文科博士課程修了(Ph.D.)。現在、立教大学文学部教授。専門は19世紀アメリカ文学。単著にModernizing Solitude: The Networked Individual in Nineteenth-Century American Literature(University of Alabama Press, 2019年/日本アメリカ文学会賞・アメリカ学会清水博賞)、共著に『脱領域・脱構築・脱半球──二一世紀人文学のために』(小鳥遊書房、2022年)、『モンロードクトリンの半球分割──トランスナショナル時代の地政学』(彩流社、2016年)などがある。

目次

序 章

第一部 他者を求める──孤独な水夫たち

 第一章 『白鯨』における寂しい個人主義

 第二章 『イズラエル・ポッター』における倫理的寂しさ

 第三章 痕跡を書き残す──『ジョン・マーと水夫たち』 における孤独の共同体

第二部 他者を見つける──不気味な自己像

 第四章 他者を貫く──『タイピー』における個人と共同体

 第五章 「誰も自分の父たりえない」──『ピエール』におけるデッドレターと血縁

第三部 他者を取り込む──帝国的欲望

 第六章 時間の暴力に抗う──「エンカンタダス」における不確かな未来

 第七章 差異を超える──「ベニト・セレノ」における認識の詩学

第四部 他者を覗く──沈黙の裂け目

 第八章 秘密の感情──『信用詐欺師』における障害と公共空間

 第九章 バートルビーの机──情動理論とメルヴィル文学

 第十章 ビリーを撃つ──媒介される内面


あとがき
引用文献

索引

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ちょうど先日、校了したところで、著者としては出版を待つだけの状態です。早く手に取りたいです。

書店に並び始めるのは3月8日ころの予定ですが、日頃お世話になっている方々には三月頭ころに献本差し上げる予定です。

2024年2月9日金曜日

単著が出版されます

三月上旬ころに、私にとっての二冊目の単著が出版されます。書誌情報は以下のとおり:

古井義昭『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』(法政大学出版局、2024年)

ちょうど出版社のHPにも情報が出ました:https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-49522-9.html

出版社による宣伝文も以下に引用します:

『白鯨』『ビリー・バッド』『バートルビー』をはじめ、安易な解釈を許さない数々の問題作で知られる19世紀米国の大作家メルヴィル。その主要作品群を精読し、誘惑すると同時に理解を拒絶する他者、配達不能郵便(デッドレター)のモチーフ、孤独や共同体や帝国主義的暴力の問題など、書くこと/読むことの根源に関わるテーマを徹底的に掘り下げる。読解への最高の手引きとなる一冊、ここに誕生!

ちょうど校了したところで、あとは装丁を決めるだけというところまで来ています。本書については色々と思い入れもあるので、このブログで書いていこうと思います。

宣伝のためにTwitterも久しぶりにやってみようかと思いましたが、面倒くさそうなのでやめておきます。SNSをやっている人は私の代わりにどうか宣伝してください。

『週間読書人』で拙著が取り上げられました

12月20日刊行『週間読書人』の「2024年回顧--収獲動向」という特集で、拙著『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』が取り上げられました。評者は福岡女子大学の長岡真吾先生です。 「海外学術誌に掲載された論文を日本語にしてまとめた精緻な労作」と紹介してくださっています。ありがとう...