2026年6月11日木曜日

メルヴィル『戦争詩集』に関するシンポに登壇します

6月27日(土)の日本アメリカ文学会東京支部例会にて、ハーマン・メルヴィル『戦争詩集』をめぐるシンポが開催されます。シンポのタイトルは「詩人メルヴィル再考:分断の時代にBattle-Piecesを読む」というものです。HPの情報はこちらから:https://www.tokyo-als.org/2026/06/%e3%80%882026june_meeting%e3%80%89/


私はこのシンポに司会兼発表者として登壇します。このシンポのコーディネーター役でもあるので、シンポの趣意文も執筆しました。趣旨文、各発表の要旨は上記のHPにありますが、まず趣旨文は以下のとおり:

 ちょうど160年前、ハーマン・メルヴィルにとって初の詩集 Battle-Pieces and Aspects of the War (1866)が出版された。南北戦争終結の翌年のことである。主に小説で知られているメルヴィルだが、実はキャリア全体を見れば、詩人としての活動時期のほうが小説のそれよりも長い。1857年に最後の長編小説 The Confidence-Man を出版して以降、メルヴィルは詩作品の執筆に移行し、晩年まで詩集を出版し続けた。メルヴィル研究においては、21世紀に入ってから「詩人メルヴィル」を再評価する動きが活発に続いており、その機運のなかでもっとも議論されてきたのがこの Battle-Pieces である。しかし、その難解さゆえ、日本のアメリカ文学研究者のあいだでこの作品が実際にどれだけ読まれているか、あるいは読まれたとしてもどれだけ理解されているかは心もとない。ところが、本作の全訳『南北戦争詩集――近代総力戦のまなざし』(牧野有通監訳、宇野雅章・斎木郁乃・貞廣真紀訳、小鳥遊書房、2025年)が昨年上梓され、日本においてメルヴィルの詩作品を読み、評価する環境が整いつつあるといえる。

 そこで本シンポジウムは、登壇者各自の Battle-Pieces 読解を通じて「詩人メルヴィル」の立ち位置を再考する機会としたい。また、現代においてこの詩集を読解することとは、世界的に政治的分断が深まる現代に生きるわれわれ自身を逆照射することにもつながるだろう。特にアメリカ国内では政治的対立が南北戦争の再来を予期させるほどに深刻化しており、「南北戦争」は遠い過去の記憶として片付けることはできなくなっている。苛烈な分断の時代に生きたメルヴィルは、この詩集を通じてどのような文学的応答をしたのだろうか。なぜその応答は小説ではなく詩でなければいけなかったのか。このシンポジウムを機に、 Battle-Pieces を読む意義、この詩集がはらむ問題点、詩人メルヴィルの評価などの諸問題を幅広く考えてみたい。

次に、私個人の発表要旨は以下のとおり:

<発表要旨>

 本発表は、メルヴィルの詩集 Battle-Pieces が代名詞の使用をめぐる言語戦略により、いかに南北の政治的分断に抵抗しているかを検討するものである。本作が出版された南北戦争直後には、南北双方の地において戦争体験を謳い上げる大量の詩作品が出版されたが、その多くは「我々(we)」と「彼ら(they)」という代名詞を用いて南北の分断を助長するものであった。一方、 Battle-Pieces を通じて南北融和のヴィジョンを提示しようとするメルヴィルは、代名詞の指示対象を曖昧にすることで、北部と南部を二項対立的な友敵構造に収めることを回避し、より包括的な「アメリカ」という共同体へと昇華しようとしている。

 本発表では、そうしたメルヴィルの試みが結果的に失敗していると示したうえで、その失敗をむしろ肯定的に評価してみたい。“we”という主語を通じてメルヴィルが示す国家の統一的ヴィジョンは、その不可能性ゆえに、分断されたままの個の姿(pieces)を図らずも描き出しており、政治共同体に回収されない個人の姿を提示できているからである。

 ただ、メルヴィルのそうした試みは肯定的にのみ評価しうるものでは決してない。南部白人といういわば「親密な他者(intimate others)」ともいうべき存在を“we”のヴィジョンに半ば暴力的に包摂しているとすれば、メルヴィルは黒人という存在を徹底的に描けていないからである。“we”と“they”という二項対立は、その構図の外部に位置する黒人という第三の存在を不可視化してしまうのであり、その意味で黒人は「残余の他者(residual others)」といえるだろう。本発表では、代名詞の撹乱的使用を通じた政治的分断の超克の試みを詳細に検討することで、その達成と限界を見極めてみたい。

趣意文にもあるとおり、メルヴィルの詩は専門家のあいだで長らく議論されてきたものの、日本ではなかなか専門家以外の読者には読まれていないという事情があります。非常に難解なので、それも無理はありません。その点で、『戦争詩集』の完訳が昨年出版されたことは非常に大きな意義を持ちます:https://www.tkns-shobou.co.jp/books/view/730

私は以前、研究仲間と『戦争詩集』の読書会を行い、一年かけて精読しましたが、それでもわからないことが多々あり、今回の翻訳のおかげで自分がいかに読めていなかったがわかりました。あと、現在は『クラレル』という長編詩の読書会もやっているのですが、月20ページのペースで読んでいて、これもまた難しい(はるかにこちらのほうが難しい)。メルヴィルの詩はとにかく難しいです。『クラレル』にも翻訳があるのですが、こういう難解な作品を翻訳してくれる訳者は偉大と思わされます。感謝しなければいけません。

今回のシンポに登壇するのはみなメルヴィルの専門家の方たちですが、メルヴィルの詩を読んだことがない、でも興味はある、という方にも面白がっていただけるようなシンポにしたいと思って準備しています。私個人は、政治分断が進む現代だからこそ、この詩集を読む意義があると思っており、その点について発表を行う予定です。

ご興味があればぜひいらしてください。

2026年5月23日土曜日

アメリカ学会のシンポジウムに登壇します

6月6日(土)から7日(日)にかけて、東京学芸大学にてアメリカ学会年次大会が開催されます。

今年度はアメリカ学会創設60周年ということで、大会初日の6日に、60周年を記念したシンポに登壇します。

シンポは"The Future of American Studies under the Second Trump Administration"というテーマで、私は、アメリカに対する心理的な壁が作られている状況だからこそ、なおさら海外発信の意義が増している、という内容を話す予定です。他の登壇者は梅川健先生、三牧聖子先生のお二方で、本シンポは英語で行われます。

詳細は以下のとおり:


非会員の方も当日は千円の参加費を払えば参加できるとのこと。他にも面白そうな発表や企画があるので(7日午前には斎木郁乃先生による『白鯨』のご発表あり)、ご興味があればご参加ください。

6月6日のこのシンポを皮切りに、7月4日までの一ヶ月の間に三つのシンポに登壇する予定です。6月下旬にはメルヴィル『戦争詩集』に関して、7月頭はディキンソンのマイナーな詩作品について発表予定。ちょっと予定が詰まりすぎなのですが、なんとかいい発表ができるように頑張ります。この後に続くシンポについても追って報告します。

2026年5月16日土曜日

American Literatureに論文がアクセプトされました

ナサニエル・ホーソーン『緋文字』に関する論文が、American Literatureにアクセプトされました。書誌情報は以下の通りで、来年中ごろまでには出版予定です:

Furui, Yoshiaki. "Somewhere Else in America: Hawthorne's Asylum Imagination." American Literature, vol. 99, no. 2, 2027, forthcoming. 

この論文は、現在取り組んでいるアサライムに関しての単著プロジェクトの一環で、『緋文字』を移民文学として読む試みです。移民を受け入れる「アサイラムとしてのアメリカ」という神話をホーソーンが一方では批判しながらも、結果的にその神話の構築に貢献してしまっていることを論じたものです。

私のプロジェクトでは「移民の避難所」としてのアサイラムと、19世紀中葉に勃興した「公的収容施設」としてのアサイラムのダブル・ミーニングに注目していますが、本論でもイギリスからの移民たるへスターが、アサイラムの地であるはずのボストンで、刑務所という違う意味のアサイラムに収容されて登場する点を考察しています。

これまで海外誌には10回以上論文掲載をしてきましたが、American Literatureのような分野を代表するトップジャーナルへの掲載は一度もできていませんでした。トップジャーナルへの論文掲載は、サバティカル中の2023年ころ、バークレーで日本語単著を書き上げているときに今後の目標と定め、そこに向けて自己改造(作品論からの脱却)を行ってきました。3年越しの努力が報われたことになり、非常に感慨深いです。

実は以前、サバティカル中に書き上げた渾身の論文をAmerican Literatureに投稿したのですが、もろくもデスクリジェクションを喰らいました(その論文はお蔵入り状態)。つまり、査読にすら回してもらえず、エディターが読んだ段階でハネられたということです。そこで一回、方法論的に自分にはトップジャーナルは無理かもしれないと諦めかけたのですが、やはりアメリカ文学研究者として同誌に論文を載せたいという思いが強く、今回が二度目のチャレンジとなりました。

今回のアクセプトは正直言って意外でした。複数の作家を並べて論じることがほぼスタンダードとなっている同誌で、ホーソーンというキャノン作家、さらには一番有名な『緋文字』を扱う論文は取り合ってもらえないのではないかと思っていたからです。「移民」という着眼点の新規性、さらには移民をめぐるアメリカの情勢もあって、トピック設定がタイムリーだったのかもしれません。

とはいえ、自分のこれまでの論文(作品論に特化したもの)と今回の論文がどう違うのかについては、明確に自己分析できており、それはいずれ何かのタイミングでお話しする機会があればと思いますし、このブログでもおいおい書いていきたいと思います。

一つ確かに言えるのは、トップジャーナルだから「すばらしい論文」を自動的に保証するのではなく、中堅誌とはあくまで狙っている読者層や「すばらしさ」の定義がそもそも違うということです。査読の厳しさと難易度でいったら、メルヴィル専門誌Leviathan以上の雑誌はないと今でも思います。これまで12回海外誌に論文を出してきて、Leviathanほど査読が厳密な雑誌はありませんでした。たとえばホーソーン研究者が今回の論文を読んだら、専門的にはいろいろと文句もつけたくなる内容かもしれませんが、そもそもがそういう論文ではないし、そういう媒体ではないということです。

参考までに、アクセプトに至るタイムラインを記しておきます(私は論文を書き始めた日付などをすべて記録しており、以下は簡略版)。

2025年2月:論文書き始め

2025年8月:論文投稿

2026年2月:Revise and Resubmitの知らせ

2026年3月:改稿原稿を提出

2026年5月:アクセプト!

R&Rの知らせを受けた際、一ヶ月以内に改稿原稿を送るようにと指示されましたが、そのような短期間で改稿を求められるのは、これまでの経験でもかなり珍しいことでした。minor revisionのときくらいです。査読レポートも、2名の査読者ともかなりポジティヴな内容で、「これはいける」という感触があり、実質的に改稿は3日くらいで終えることができました。今考えると、minor revisionの範疇だったのかもしれません。とはいえ、正式にアクセプトの知らせを受けるまでは気が気ではなかったです。

今回のアクセプトで、40代に入ってからもまだまだ成長できるということがわかって嬉しいですし、トップジャーナルに載るためのロジックというか方法論もわかったところがあるので、今後も海外誌へのチャレンジを続けていきます。

今回の論文は、執筆中の単著の核となるアイディアを詰め込んだ論文ですので、これを弾みにして単著出版に向けて研究を続けていきます。あと5年以内くらいには出せれば、と思って引き続き頑張ります。

2026年4月8日水曜日

『誘惑する他者』書評

ほぼ同時期に、拙著『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』の書評が二つ出ました。

まず一つは、日本アメリカ文学会『アメリカ文学研究』第62号に掲載された、竹内勝徳先生(鹿児島大学)によるものです。


各章を丁寧にご紹介いただきながら、私がメルヴィルを読み解く上で重視してきた郵便のモチーフをハイライトしてくださっています。「「読むことの倫理」という独創的な理念をメルヴィル文学の中に読み取り、その豊穣なテクストを読者の眼前に提示したという点で、本書はメルヴィル研究者にはもちろん、全ての文学研究者に一度をお勧めしたい研究書である」(53)と書いていただきました。

もう一つは、アメリカ学会発行『アメリカ研究』第60号掲載の、石原剛先生(東京大学)によるものです。

こちらも同様に本書の内容を丁寧にご紹介いただきつつ、文学研究ではなく、アメリカ研究の学術誌に掲載ということもあり、拙著の学際性を強調していただきました。また、本書のほとんどが欧米の査読誌に掲載された英語論文を元にしていることに触れ、「つまり、欧米の学問水準のハードルをクリアした成果が結実した形だ。その意味で本書は、これから世界への発信を目指す特に若手研究者にとって素晴らしい目標を提示してくれている」(231)と書いていただきました。

素晴らしいご書評をお寄せくださったお二方には心より感謝申し上げます。

出版から早くも2年近く経ち、これまで多くの方々に書評していただきました。改めて情報をまとめます。書評だけでなく紹介も含めてまとめてみます。

1、『図書新聞』(2024年07月27日号、2024年上半期読書アンケート/巽孝之・評)

2、『週刊読書人』(2024年12月20日号、2024年回顧/長岡真吾・評)

3、日本メルヴィル学会『Sky-Hawk』(第12号、通巻39号/巽孝之・評)

4、『英米文学』(第85号、2025年03月19日発行/梅澤琉登・評)

5、『アメリカ太平洋研究』(vol.25、2025年03月発行、pp. 133-40/吉国浩哉・評)

6、アメリカ学会『会報』(第217号、2025年4月30日発行、p. 16/鈴木一生・評)

7、日本アメリカ文学会『アメリカ文学研究』(第62号、2026年3月発行、pp. 47-53/竹内勝徳・評)

8、アメリカ学会『アメリカ研究』(第60号、2026年3月発行、pp. 227-31/石原剛・評)

このようにまとめてみると、さまざまな媒体でご紹介いただいたことがわかります。書評をお書きいただいた皆さまには心よりの感謝を。引き続き『誘惑する他者』をお願いします。

2026年3月27日金曜日

国際メルヴィル学会参加記がLeviathanに掲載されました

メルヴィル学会の機関誌Leviathanに、昨年6月にコネチカット大学で開催された国際メルヴィル学会の参加レポートが掲載されました:https://muse.jhu.edu/article/985918

Furui, Yoshiaki. "Melville Studies across the Oceans." Leviathan, vol. 28, no. 1, 2026, pp. 137-41. 

日頃書いている論文とは違う種類の文章なので、少し軽めの英語で書く経験が私にとっては新鮮でした。メルヴィル研究のさらなる国際化の重要性について述べたり、私が学会で感じた雑感などを書いています。

この号には私の他にも複数名による参加レポートが掲載されていますし、Photo Galleryもあって、学会の様子を垣間見ることができます。ご興味があればぜひご覧ください。

そういえば、今号から編集長がBrian Yothers氏からJennifer Greiman氏に交代となったようです。私が初めてLeviathanに論文掲載したのはもう13年くらい前のことで、その頃の編集長はJohn Bryant先生でした(その後がSamuel Otter先生)。その頃はまだ15号とかで、比較的新しいジャーナルという感じでしたが、今や28号。時間の流れを感じます。

2026年3月17日火曜日

C19体験記


C19で学会発表をしてきました。C19は初めての学会参加だったのですが、非常にいい経験ができました。自分にとっての備忘録も兼ねて、少し雑感を記しておきます。

学会会場のHyatt Regency。アメリカの学会は大学でやることもありますが、大きな学会はホテルのフロアを貸し切ってやることもあります。宿泊もここだったので、基本的にはずっとホテルの中にいました。

これまでの発表履歴を振り返ると、私はMLA, ALA, Melville Conference, MELUS等々のアメリカの様々な学会で10回以上発表してきましたが、それぞれの学会に特徴はもちろんあり、なかでもC19は毛色が違うというか、特徴的な何かを感じました。

その「何か」を探ってみると、まずは作家協会の学会(e.g. Melville Conference)でもないし、作家協会の集まり(ALA)でもないし、全てを統合した学会(MLA)でもなく、19世紀アメリカ文学に特化した学会なので、時代区分、作家、作品など、あらゆる面でほどよく幅広く網羅している学会、という感じです。

そのため、私がこれまで何度も参加しているMelville Conferenceでは見かけないような大物研究者もたくさん来ていたし、発表内容も多岐にわたっていました。

あとは、いわゆる「キャノン」からの意識的な距離を感じます。唯一、私が発表したパネルはメルヴィルに特化したものでしたが、メルヴィルは例外的で、他に白人キャノン作家の名前(ホーソーン、ディキンソン、ジェイムズなど)を冠したパネルは一つもありませんでした。学会誌のJ19もそうですが、人種的・ジェンダー的多様性を強く意識した学会であるとは確実に言えるでしょう。以前、論文を投稿した時にもらった査読コメントでもその点を感じたことがあるので、改めてこの学会の特性を把握できた気がします。

逆に言うと、多様性を目指すこのC19にあってもメルヴィルは特別な位置を占めているのだな、ということも認識できました。今後もアメリカ・イギリスのUPからメルヴィルに関する単著がいくつか出るらしいし、たとえば今のアメリカでホーソーンやジェイムズに関する単著が出るというのはあまり想像できない、ということも他のアメリカ人研究者とも話しました。それはメルヴィル作品が政治的なトピックを扱っていることと関係しているのかもしれない、と個人的には思っています。

さらに逆に言うと、なかにはこうした学会に距離を感じる研究者もいるだろうし、そういう人はALAや作家協会の学会に行ったりするのかもしれません。

最終日、最後のパネルも大盛況。


発表のトピックの傾向としては、大きく言うと「環境」に関する発表が多かったです。Plant Studies, New Materialism, Anthropocene等々。これはメルヴィル研究の動向にも言えます。また、シンシナティというアボリショニズムゆかりの場所で開催されたということもあり、Frances E. Harperをはじめとする黒人作家に関する発表が非常に多かったです。あともちろん、ストウに関する発表も。

J19の編集者2名による、論文審査プロセスを教えてくれる講座みたいなものもあり、こちらも参加しました。だいたいが知っている内容でしたが、何度も強調していたのは「研究は対話」である、という点です。一人の編集者が、論文を書くことはパーティでの会話に途中から参加するようなものだ、と言っていて、これはまさに私がいつも学生指導で言っていることなので、膝を打つような思いをしました。我ながら、学問的対話を表現するのにこれ以上に適切な比喩をいまだに思いつきません。

あとは採択率とか、審査に至る詳細なプロセス(査読者を見つけるのが大変)とか、編者サイドの視点の話などをいろいろ聞かせてもらい、J19にいずれ論文を載せたい身としては有益な情報を得ることができました。非常に審査が厳しい雑誌なので、編集者が出版の可能性を見出してくれないとそもそも査読に回らないし、Revise & Resubmitになる(その結果落ちるにしても)のはもっと価値がある証拠、とわかって励まされたところがあります。アメリカの雑誌では、投稿してもそもそも査読にすら回してもらえないdesk rejectionになる、というのはよくあることです。

最後にこれは学会とは直接関係ありませんが、シンシナティという土地に行けたのは非常に良かったです。アボリショニズムの震源地であり、地下鉄道のハブだった場に身を置くだけで、『アンクル・トムの小屋』の世界をよりリアルに感じられた気がします。

学会参加の隙間時間にはHarriet Beecher Stowe Houseに行ってツアーに参加し、


National Underground Railroad Freedom Centerに行って奴隷制にまつわる展示を見学し、


オハイオ河対岸に見えるケンタッキー州を見ながら、イライザ・ハリスの有名な一場面に思いを馳せたりしました。


そういえば肝心の私の発表ですが、「バートルビー移民」説は(説得力は別として)聴衆に面白がってもらえたようです。何人かの方からポジティブな感想を聞くことができました。この論は、いずれ出すことになるだろう単著に収録予定。

元指導教員のBen Reiss先生と二人でじっくり話す機会があり、学会発表の内容だけでなく、現在のアサイラム単著プロジェクトについてもアイディアを話し、いろんなアドバイスももらえてよかったです。彼の元指導学生たち5名で彼を囲むエモリー同窓会もやったりと、個人的に感慨深い学会出張となりました。今後もできれば継続的にC19に参加していきたいと思います。

2026年3月10日火曜日

C19プログラム

私が今週参加するC19のプログラムがようやく公開されました:https://www.c19underground.com/program

それにしてもすごい数の発表数、イベントです。数百はあるんじゃないかと思います。日本の学会とは文字通り桁違いで、これだけ研究者の数がいれば、そりゃ簡単に論文の査読に通らないわけだ、と思います。

プログラム上で専任教員、非常勤、大学院生の区別をしないのもアメリカ的です。そもそもアメリカの学会は基本的に自分でプロポーザルを送って発表を申し込むシステムなので、偉い先生だろうと院生だろうと区別してもしょうがないわけです。こういう民主的なところはとてもいいと思います。違う文化に触れると、日本の学会が立場を区別したがるのはなぜなのか、疑問が湧いてくるところです。誰が発表しようと、あくまで内容で評価されるべきでしょう。

また、このプログラムを眺めているだけでも、今の研究動向が掴めるはずです。やはりキャノン作家の研究は少ないですね。自分の発表だけでなく、できるだけ耳学問もして帰ってきたいと思います。



メルヴィル『戦争詩集』に関するシンポに登壇します

6月27日(土)の日本アメリカ文学会東京支部例会にて、ハーマン・メルヴィル『戦争詩集』をめぐるシンポが開催されます。シンポのタイトルは「詩人メルヴィル再考:分断の時代に Battle-Pieces を読む」というものです。HPの情報はこちらから: https://www.toky...