タイトルは"Ventriloquizing the South: Reading Melville across the Civil War"というもので、Cambridge UP発行のJournal of American Studies誌に掲載されました。2019年に「バートルビー」論を掲載したことがあり、これで同誌に載るのは二度目となります。
内容としては、Cody Marrsが提唱しているtransbellum literatureという概念を参照しながら、メルヴィルという作家のキャリアを、南北戦争を超えて一つの総体として捉えることを目指した論文です。メルヴィルといえば、南北戦争前の小説家メルヴィル、南北戦争後の詩人メルヴィル、という二つのメルヴィル像が構築されてきたわけですが、本論では南北戦争を作家キャリアの断絶と捉えるのではなく、南北戦争を経た上での連続性を前景化しました。
「掲載」といっても、これはネット上での先行公開でしかなく、実際に本掲載されるのはまだ時間がかかるようです。論文がアクセプトされてからここまで十ヶ月もかかっています。投稿してからは実に2年半。この調子だと、生きているあいだに出せる査読論文はあと10本くらいかもしれません。
この論文、本来であれば昨年出版した『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』に収めたかったのですが、まったく時期的に間に合いませんでした。残念。
反省点としては、あくまで人が作った参照枠(この場合はtransbellum literature)を援用して作品を論じているところです。これ自体まったく悪くはないのですが、同じことはこれまでもやってきたので、少しでも参照枠を作る側に回ることができるよう、これから努力したいです。ただ、この論文でも、自分なりにこれまでとは違うことはしているつもりで、複数の作品を扱いながら作家のキャリアを提示する、という射程の広い議論は、一つの作品に絞ったこれまでの作品論ではしてこなかった論じ方です。この論文はサバティカルでの自己改造中に書いたものですが、今も自己改造は道半ばです。作品論という呪縛に悩まされ続けています。
また、このジャーナルのこれまでの論文執筆者を調べると、大体がすでに英語圏でテニュアを得ている研究者で、単著をすでに何冊も出している人も多いです。執筆者に院生が比較的多いジャーナルというのも海外には存在しますが、ジャーナルのレベルが高くなると、寄稿者のレベルも上がります。先日の筑波でのシンポの内容と関わりますが、阿部さんが言うジャーナルの「ランク」を把握するには、寄稿者の属性を調べるというのも一つの有力な判断材料になるでしょう。
論文を読みたいけどアクセスできない、という方がいれば気兼ねなくご連絡ください。