2024年7月20日土曜日

『図書新聞』上半期アンケートで取り上げられました

本日(7/20)発売の『図書新聞』最新号の「上半期読書アンケート」で、巽孝之先生に拙著『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』を取り上げていただきました。

選者一人につき3冊を選ぶ形式なのですが、そのうちの1冊として挙げていただいています。当たり前ですがすべてをアップすることはできないので、一部分のみを:


特に、「古井の著書が類書全てと決定的に異なるのは、収められた論文の大変が北米第一級の学術誌だ」という評は、専門家でないとわからない(巽先生のような専門家でないとインパクトがわからない)点なので、そこを取り上げてくださったのがありがたかったです。詳しくは実際の紙面をご覧ください。77人もの選者がそれぞれの3冊を選んでおり、大変読み応えのあるものになっています。

巽先生は宮崎裕助さんの本も一緒にあげてくださってますが、こちらの本も「読むことのエチカ」(私の本だと「読むことの倫理」)について書いており、同時期に同じテーマに取り組んでいる本が出たのは奇遇です。

最初の単著をアメリカから出したときは、こうやって学会誌以外の場所で取り上げられるということはほとんど考えていなかったのですが、今回の本を出してから、学会以外の場で人にどう読まれるのかを気にかけるようになりました。

当たり前のことですが、学術書を含め、本は毎月のように大量に出版されており、そのなかで誰かの注意を引くということが本当に大変だと気づかされました。そういう意味でも、こうやって取り上げていただけるのはありがたいことです。引き続きどこかで取り上げてもらえるのを願っています。

2024年7月19日金曜日

阿部幸大さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

阿部幸大さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』をご恵投いただきました。7月24日に発売予定のご本です:https://amzn.asia/d/0gxDM3a8

このブログは私の仕事の告知用に運用しているので、他の方のお仕事を紹介したことはないのですが、この本に限ってはぜひ紹介したいと思いました。ある意味、論文指導をしている私自身に関係する本でもあるからです。

この本は、論文執筆という行為を脱神秘化し、民主化する画期的な本です。このブログを読んでいる学生の方がいれば、ぜひ手に取っていただきたいと思います。

阿部さんと私は、長らくメールなどを通じて論文執筆の教育について意見交換をしてきました。繰り返し話し合ってきたのは、「論文って大半はテクニックの問題だよね」という点でした。これは、論文執筆をテクニックという「瑣末」に見える次元に矮小化しているのではありません。そういう「瑣末」な問題でつまづいてしまう人が多いために、いいアイディアや議論があったとしても、論文という形で世に出すことが叶わない(査読に通らない)人が多いことを嘆いているのです。

私や阿部さんは超放任主義のところで育ったので、論文の書き方を教わるという経験はほぼなく、自力で論文の書き方を見つける必要がありました。少なくとも私は人の論文の見ようみまねで、ゼロから自分なりの論文の型というものを構築していかねばなりませんでした。日本の大学院で論文指導というものを受けた記憶はほとんどありません。「才能」とか「センス」とかではなく(そういう人もたくさんいるでしょう)、私の場合は生き延びるために「ド根性」でどうにかしてしまったのです。

阿部さんの本は、論文執筆を、そのように「自力でなんとかできてしまった人たち」の専有物ではなく、誰しもが獲得可能な技術として提示しています。そこがこの本の画期的なところです。私が冒頭で「民主化」という言葉を使ったのはそういう理由です。

また、自力で苦労した経験からすると、そもそもこういうテクニックの問題は早めに教えてもらえればよかった、という思いがあります。阿部さんの本は、そういう苦労を次世代に繰り返させまいとする善意の本でもあります。

自力で論文を書けるようになった人の中には、「いやいや、そういう試行錯誤が研究の地力を作るのであって、あえて教えるものではない」と反論する人がいるかもしれません。私も確かにそう思います。しかしそれは理想論であって、教えられるテクニックを教えてもらえないために、論文が書けず、キャリアを諦めざるを得ない人がいるのも事実です。大学院生が減少しつつあるなか、そういうエリート主義は不要で、民主化が必要なのです。

この本で具体的におすすめなのは、第3章「パラグラフをつくる」、第4章「パラグラフを解析する」、そして第7章「イントロダクションにすべてを書く」、です。学部生にも十分理解可能で実践可能なことばかりが書いてあります。

特に私はイントロダクションの重要性を日頃から口を酸っぱくして学生たちに伝えているので、阿部さんが本という形でそれを明文化してくれたのは大変ありがたいです。特に査読や審査の場において、イントロでほぼ全てが決まるということは、私のこれまでの投稿者側としての長い経験上、確信を持って言えます。イントロの重要性は、特に投稿数が多い海外ジャーナルに顕著で、日本の論文作法ではそこまで浸透していない価値観のように思えます。

実は一番難易度が高いのは、第1章「アーギュメントをつくる」だと考えています。これについては、私自身もまだうまくできていないことが多く、非常に勉強になりました。また、実力が伴っていない学生がこの指南にしたがってアーギュメントをつくってしまうと、見栄えだけがいい主張が先行し、例証が伴わないアンバランスな論文になってしまう場合もあるかもしれません。なので、この第1章は、これだけを取り出して理解するのではなく、この本の他の章も理解したうえでアプローチする必要があると思います。第1章、とてもわかりやすい風でありながら、それくらい高度な話をしています。

研究歴がそれなりに長い私にとっても勉強になるくらい、この本は不思議なほど門戸が広い稀有な本になっています。私は長らく論文指導には戸田山和久『論文の教室』を使ってきましたが、今後はこの本をメインに使うことになるでしょう。

私自身、日本における論文指導について長く考えてきたこともあり、思わず長文になってしまいました。時代を刷新するこの本、強くおすすめです。

2024年7月16日火曜日

『ユリイカ』ポール・オースター特集号に寄稿しました

 『ユリイカ』のポール・オースター特集号が7月末に出版されます:http://seidosha.co.jp/book/index.php?id=3954&status=published

私は「オースターとメルヴィル」というお題で依頼を受け、「寂しさの発明:オースターとメルヴィル」という論考を寄稿しました。

オースターが19世紀アメリカ文学に強い影響を受けているのは有名な話ですが、私は特に孤独と寂しさの描き方において、オースター作品にメルヴィルの影を読み取れるのではないか、という論を書いています。

取り上げた作品はもちろん、『孤独の発明』です。この作品には一度もメルヴィルの名前は出てこないのですが、メルヴィルを研究している目からすれば、どうしてもメルヴィルの影響をそこかしこに感じざるをえませんでした。

私は今でこそ19世紀アメリカ文学を専門にしていますが、アメリカ文学に興味を持ったきっかけは柴田元幸先生の『アメリカ文学のレッスン』と、柴田先生訳の『孤独の発明』でした。学部生のとき、『孤独の発明』冒頭の訳文の美しさに心打たれたときの衝撃をいまだに覚えています。

その後、卒論ではレイモンド・カーヴァーを扱い、大学院からメルヴィルをやるようになり、どんどんと現代アメリカ文学から離れていきました。その意味で、今回オースター作品を読み直して原稿を書く作業は、約20年越しに自分の原点に戻るような感覚でした。

また、いわゆる「論文」ではない文章を書くのは、書評を除いてほとんど初めてと言っていいと思います。今回のは「論考」と形容すればいいのかもしれませんが、呼び方はともあれ、新しいタイプの文章を書くのは新鮮な体験でした。

柴田先生はもちろん、豪華な執筆陣が寄稿していますのでご興味があれば手に取っていただければと思います。

研究者研究のススメ

一人の研究者が書いたものを、時系列順に読み進めてゆく-- そんな経験はあるでしょうか。 先日、紀伊國屋書店で阿部幸大さんとの対談が開催されましたが(お越しいただいた方々、ありがとうございました)、事前準備として、阿部さんが書いた論文を8本ほど時系列順に読むことで、「阿部幸大研究」...